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仕事とは犠牲でなく表現だ

仕事とは犠牲ではない

 

一日で仕事をしている時間は長い

 

オフィスで働くだけではない

生活していると日々の雑事、しなきゃいけないことも必ずだれしもある。

 

総称してその「仕事」を心の深くで 

 

仕事は自己を犠牲にする事だ

という前提があるとしたなら

 

それはツラいことだね。

 

 

自分の時間と労力を犠牲にしてお金にする

「換金業」をするために生きているわけではない。

 

 

単純作業や会社つとめが 

その仕組みがダメなのではない。

 

それを選んでいるその人自身

その人の「心持ち」のことなんだ。

 

 

 

 

 

それでなくても私たちは制限の中で生きている。

時間という制限

肉体という制限

 

みんな一日にできることは制限がある。

 

これを無視できないのに

 

その上 自己犠牲的な換金を強いられたなら(又は、自分が自分に強いたのなら)

じょじょに心もカラダも疲れてくる。

 

自分だけが損している気がする。

 

ちゃぶ台ひっくり返したくなる。

 

自分を麻痺させた状態が長く続くと 死にたくなる。

 

 

 

でも、ちょっと考えてみよう

 

どうしようも変えられないようなことでも

それを自分が選んでいたとしたら・・・?という観点で考えてみる。

 

自分の身を犠牲にしてがまんするしかない

と そこにしがみつき

イヤな仕事でも一生懸命にやらないと と

社会的地位、お金、周りの人の評価を得るため 

自己を殺し、言いたいことをのみ込んでいる。

 

という表現を自ら選んでしているのだ。

 

 

 

そして、悲観的になりスネて

 

楽しむためにうまれてきたんだ!

な〜んて ぜんぜんわからないし

そんなお気楽なこと言って

そんなんで生きていければいいよね。

 

 

・・・・そもそも 楽しいって何だろう

リラックスって何だろう・・・?

 

私は何も感じない。

 

もはやツラくもない!

(ん?でもおかしいな? 楽しいとかも感じない)

 

ずっと休んでも 寝てても 緊張が抜けない。。。

歯をくいしばっている

 

 

 

犠牲は

感情を麻痺させ 同時に肉体も麻痺していくのだ。

 

 

 

 

仕事とは犠牲ではない

 

じゃ何だろう・・・

 

仕事とは本来「表現」だ。

 

と観るとしたらどうだろう。

 

 

 

日常が、毎日が、人生が 表現だとしたら。。。

 

犠牲という観点があると 全てがやらなきゃいけないことになってしまう。

 

犠牲のために自分が身を削らなくてはいけないから

朝起きることも

服を選ぶことも

メイクをすることも

掃除をすることも

 

子供たちの世話をすることも

働くことも

人と交流することも

 

瞬間瞬間に苦行を味わっていることになる。

 

受け身的な犠牲感の中 現実はどうしようもならないんだと。

そうやって自分に言って聞かせる。

 

 

私はこんなに頑張ってこんなに相手を思ってやっているのに!

が募る。

 

こんなに犠牲を払っているのに・・・と

 

波動 重いなー。笑

 

 

もし、仕事を含む日常が「表現」なんだ!としたら

 

今日はこんなふうに仕事をしてみよう

じゃ 何時に起きて、

この服にして

こんなメイクにして

こんな感じで一日終えてたらいいな!

と、

自分が受け身でなくもっと能動的にアクティブに選んでいるし

ある程度の制限の中でも選べるんだと

発見する。

 

 

子供と家族と 幸せでありたいな〜 

だから私は

今日は子共たちとこんなふうに接してみよう

 

うーん 今日はあまりうまくいかなかった。

じゃあ もっとこうしてみよう。

 

子供の好きな料理を作って私自慢の母の味を伝授しよう 

そして私もおいしくビールを飲もう!

 

 

 

将来こういう働き方をして漠然とだけどこうなってたいな〜

それには自分に素直になってみよう(も、表現)

 

じゃあ これにどう取り組もうかな

あーしようか こうしようか

ちょっと休みたいな

 

休もう!(も、表現^^)

 

これはいやだ 今やりたくない

これはこうしてほしいの

 

イヤならやめる も

 

逃げる も 笑

 

 

 

仕事であれ生活であれ 表現で

 

その表現次第では 自分も楽しく時間を送ることができる。

 

 

逆に、全部一人で背負わなきゃもその人の表現

 

本人は いつもなぜかそうなってツラいんですと言うけど、

いやいや 「一人で背負います」を表現すると無意識で決めてるからだよ。

 

気がついたら 違う表現をしたい!と思えば

そうすることもできるのに。

 

全て あなたにも自由が与えられているのに

観ようと

信じようと しないだけ。(も、表現)

 

 

 

 

私の母はいつも、私と弟が小さい時

「あんたたちがおるから 私は我慢しとる。おらんかったらいいのに」

と言っていた。

 

犠牲感ハンパない人だった。

不平不満しか口にしなかった。

 

子育てはほんと大変だ 

だからそういう自由になりたいと思うこともあるだろうけど、

 

自己犠牲が前提にあるから そういう状況を量子の場をつくり出していたんだな。

 

意図したものがそのまま返ってきていた

今ならわかる 量子の性質。

 

 

 

人生は苦行だとか

人はうまれもって罪人だとか

カルマだとか

人のために生きなければとか

運命だ宿命だ 変えられないとか

 

 

本人がそれを信じて

業をするのも表現

 

 

 

楽しく生きるんだ

愛するんだ

人生はクリエイトだ!と生きるのも表現

 

 

どんな前提で生きていても

それなりに合った物理社会が用意されているはず。

 これからもそう。

 

 

 

今 あなたは選んでいるし

今までもそれを選んできた

 

 

だから今からも選べるよ。

 

 

Mahalo