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「思う」ことじたいが「愛」

愛が無いんじゃなかった・・・

表現がへたくそだっただけ

 

 

自分にうまく伝わってこないものは愛がないと思いがち

 

でも、愛がないんじゃない 

むしろ愛に満ちているのに

 

それが 自分にしっくり来る表現方法じゃなかったり

自分が欲しいものではなかったり

 

 

ただそういうだけで

わからなかっただけで

愛はいっぱいあった

 

 

それは 誰かを「思う」

思った上で、できる範囲を行う

 

という中に愛があるから。

 

 

両親からも じいばあからも

友人からも

通りすがりの人からも

旅先であった人も

かつての恋人も

仕事仲間も

 

愛は必ずしもあなたが欲しい形であたえられるものではないかもしれない

 

 

求めている形と違うから

愛がないと決めつけてると 悲しくなる

 

 

愛があっても

形にできない、表現できないものもある

 

それを知っておくのも大切だと思う。

 

 

 

イヤ 本当に私に対して愛があれば

私が求めてるように いやそれ以上にわかって与えてくれてもいいじゃないか!

 

言わなくてもわかって。

察してよ!

それができるのが愛でしょ!と決めつける。

 

 

 

あくまで「私が受け取る基準」でしか考えていない。

 

 

もしかしたら、

自分も相手の求めているものを

自分も差し出せてないかもしれないと考えもせずに。。。

 

 

全てが受け身だった幼少期のクセ

してくれない

してくれない・・・・・

 

 

大人になった今 

自分がやっと「相手の立場に立って」考え行動できるのに

大人になって

「受け取ると 与えるの バランス」をとる視点に立てるのに

 

 

私は愛が足りないのだとかもらってないとか

 

そうではない

 

そうではなかった

 

それはその人の精一杯の愛情表現で

 

それは自分の精一杯の愛情表現で

 

ただそれだけで

 

そのひとのはからいや 

立場や

男女の差や 

その時の事情を配慮できなかった自分がいる。

 

 

いつも自分の中の常識の中だけで考え

こういう時は普通こうでしょ!と

それから大きく外れると 信じらんねーと。。。

 

もしかしたら、相手は

そんな中でのせいいっぱい

 

不器用で

もっと こうしたらいいのにがいっぱいで

 

 

でも それはその人のぎりぎりであって

それを 本人ももどかしく思いながら

 

世間体や制度、法律や、モラルにしばられながら

 

自分も守り

相手にもいい

 

最前の 考えた末の極みなのかもしれないのに。

 

 

 

常識的に考えたら

 

女ごころをしっていれば

 

私のこと考えてるなら

 

そんなんじゃない

 

 

人が一瞬でも  

 

相手を「思う」

 

思った上で行うこと そこに愛があったりする。

 

 

 

 

 

誰だって自分の愛を否定されたら辛い

 

自分が否定されたら・・・逆の立場になって考えてみたら

それが優しさじゃないのかな?

 

 

 

 

対人のコミュニケーションに限らず

 

ものを作るでもそう

使う人を考えて「思って」作る

 

施術者でもそう

相手の立場に立って「思って」 その時の精一杯をする

 

仕事でもそう

お互いのため 社会にとって最前と「思って」する

 

どんな中にも愛がある。

 

 

そう思えば全て愛のあるものに囲まれているのだ

 

 

使い勝手を考えて作られた家具でも

おいしく食べられるように考えられた食品や

仕事で疲れて、育児が忙しい人にすぐできるよう作られた冷凍食品さえ

 

サービスの中にも顧客を「思う」愛がある

 

 

日本人はこれに慣れ過ぎ

もっともっと

いつも現状に文句をいい、不足を見つけるのはプロだが

 

 

「満ち足りていつもあるもの」に感謝できるアンテナが壊れている。

 

 

 

だから本当はこの世のもの全ては愛の結晶なのだ

 

そこから外れる強すぎる自我 

愛ではなく相手へのコントロールや騙し、搾取は

これからの時代もっと淘汰されて行くだろう

 

 

ということは 

 

あなたがあまりにも自我の固まりで

相手の立場を考えることができなければ

あなたはもっと辛くなるということ。

 

これは自分を犠牲にして人の言うことをきけということではない

 

 

本当の自分の心地よさにフォーカスして生きることなのだ。

 

 

 

真実は隠れていることが多い

 

だから、表面でTVなどちまたで常識とされているものとは違うことも多い。

 

良い悪いをジャッジして人を裁き思考を狭めてしまう世界に

ちょっと疑問をもち

こんな時代だからこそ 自分の内側の愛をみつめよう。

 

ジャッジの中に愛はないのだ。

 

 

 

 

 

矛盾をせめてはダメなのだ

 

矛盾があるのがいけないのではない

 

矛盾がそもそも悪でない

 

矛盾はそもそも「ある」というだけ

 

 

 

 

そうじゃなくて矛盾してても

 

その人を「思う」

自分を「思う」 これが愛だと思う。

 

 

 

 

 

何も寂しがることはない

 

寂しがるなら 

全てに愛があると理解できない自分をさみしがるといい

 

 

自分の中にも愛がいっぱいだったと気がついていくと

心の中の冷たい風や ぽっかり開いた穴が

あまり感じられなくなる

 

 

 

 

 

この世のもの全てが愛だった

 

ただ

表現が下手だった

 

自分好みでなかった

 

そして

ただ

受け取る自分が理解不足だった

 

そして、自分ももしかしたら相手の欲しい形に愛を差し出せてないかもしれない。

 

ただただ 

そうということ。で

 

この世は愛に溢れている

 

 

 

多くのものに囲まれ

その中から自分の好きなものを選べる世の中になればなるほど

 

 

対人関係にでも

自分の好みのものじゃない物は排除したり

理解でいないと 頭から決めつけるけど

 

人と人との関係は

物のようにはいかない

 

好きな人でも 

大切にしないといけない家族でも

自分の気持ちいいストライクゾーン以外はだめだししてしまう

 

だから自分もダメ出しされているように思え おびえる。

 

その人はその人なりの精一杯なのに

 

それをわかる余地もなく

愛がない!だって愛があったらわかるでしょ?と

 

 

 

 

おいしいものをつくろうとするのも

長く続けるのも

多くに人に大量にでも

空いた時間にだけでも

 

 

愛を感じようと

「愛はあるものという前提」で観ると軽やかになっていく

 

 

昔、私たちの先祖が 

ある無名の日本人が

あとの時代のことを考え そこに住むの人のことを考え

 

身を削った

 

 

 

身を削る

 

子育てでも

恋愛でも

ペットを育てるでも

仕事でも

日常でも

うまくいかないことの中にも

 

全てに愛がある

 

 

今日 この一杯のコーヒーにも

 

コーヒーを作ってくれた人

収穫してくれた人

仕入れてくれた人

焙煎してくれた人

販売してくれた人

おいしく飲める自分

 

全部愛がある

 

これを気がつかせてくれた出来事

書き込むパソコンを作ってくれた人

SNSを作ってくれた人

読んでくれる人

 

全部愛がある

 

 

 

あなたの周りにもいっぱいある。

気がつきたいか 気がつきたくないか?

だけ。

 

 

だって

「思う」が「愛」だから。

 

 

 

愛だらけでしょ?笑

 

 

mahalo

 

 

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コメント: 1
  • #1

    ゆかりさん (木曜日, 16 2月 2017 13:55)

    私のことが書いてあるー、って思いましたー(笑)